小教区報巻頭言など

紫原教会報2023年2月号  山口
 今月下旬には四旬節に入ります。肉体は衰えていきますが、私たちの霊は、恵みと信仰次第で、若返ります。神の子イエスは、荒野でのサタンからの誘惑を私たちと同じ「人の子」の立場で斥け、それからガリラヤに移り住んで人々に福音を語り、病人を癒すなど活動を始めました。最初から、その活動は当時の宗教的指導者たちの反感・敵意を招くものでした。それでもイエスは自分のなすべきことを思いとどまることはありませんでした。「主のまことは荒磯(ありそ)の岩・・」(讃美歌85番)とありますが、主の真実(まこと)は揺らぐことがない。「私たちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。キリストを否(いな)むなら、キリストも私たちを否まれる。私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(2テモテ2章)。ファリサイ派の人はイエスに「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです」と認めています(マタイ22章)。「あなたの真実はそれほど深い。・・主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」(哀歌3章)。どんな時も、主の真実を信じて、霊において祈りながら歩みましょう。 山口

最新!

1月号  
 神が与えたもう新しい年。イエス生誕の800年前、預言者イザヤは主を見ました。神殿で奉仕していると、高い天にある御座に主が座っておられるのを見、その衣の裾は神殿いっぱいにひろがっていた。上の方にセラフィムがいて「聖なる、聖なる・・」と呼び交わしていた(イザヤ6章)。今から百数十年前、兵庫県のセキさんという婦人は娘の頃、紡績工場で働いていた。そしてキリスト教の伝道集会に出てキリストを信じた。その後、病気になるが、少しよくなり、炭焼きの夫と結婚した。いちど山に入ると兵庫県から鳥取県にかけて渡り歩いた。主人は炭焼き、セキさんは炊事洗濯や下働き。子どもは実家の母にあずけていたので、いつも子どものことが気がかりだった。ある日、だれもいない山の泉のほとりで「どうぞイエス様、子どもが弱いですからお助けください」と祈りつづけた。そしてふと目をあけると衣の裾が見え、ずうっと上を見るとイエス様のような方が立っていられた。びっくりしてひれ伏し「イエス様、ありがとうございます、ありがとうございます」と涙にくれたという(藤尾正人『神さまの指紋見つけた』)。キリストは神の右の座につき、人間ではなく主が建てた真の聖所・幕屋で仕えておられます(ヘブライ人への手紙4~10章)。イザヤもセキさんもキリストの衣の裾を見ました。私たちもキリストの臨在を信じて歩みましょう。山口


12月号
暦の上では、これからイエスの誕生に向かう、さらに新年に向かう。私たちは一体どこへ向かっているのか?人によってあれこれあるでしょうが、イエスキリストに向かう、もっとキリストの近くに向かうものでありたいと思います。待降節の初めに読まれた御言葉「今や、私たちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている。闇の行ないを脱ぎ捨て、光の鎧兜(よろいかぶと)を身に付けましょう。主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ人への手紙13章)。パウロは別の手紙で「信仰と愛を胸当てとし、救いの希望を兜としてかぶりなさい」と言っています。 物理的な戦いではありません、相手はサタンの、霊的な戦いですから「光のよろいかぶと」であり、胸当て・よろいはキリストへの信仰と愛という鎧であり、兜は希望という兜です。希望とは「救いの希望」のことです。死を超えて永遠の命に向かう希望です。病や老いや苦難を越えていく希望です。キリストは私たちを裏切りません。キリストへの信仰、愛、希望を持つことが「主イエス・キリストを身にまとう」ことです。学生時代からの友人が詩集を出しました。


苦しみを楽しさに変え
悲しみを喜びに変え
重荷を共に背負ってくれる
イエス・キリスト
汲んでも汲んで尽きない
恵みの泉
「恵みの泉」と題する詩でした。幼子イエスを迎えるために歩みましょう。山口


11月号  
9月号にドイツのカトリック人口が毎年10万人から2,30万人ずつ減少していると書きました。信徒の減少、教会離れはドイツに限りません。例えばイタリアもカトリック人口の45%の人々はミサなどの儀式に参加していませんし、若者は教会の儀式を時代錯誤だとして相手にしません。アイルランドも信仰を実践する人は減少し、司祭や修道者の召命も激減しています。南米のチリも2006年には人口の70%がカトリックだったのに、2019年にはわずか45%に減り、現在教会に信頼を置いているのはわずか36%であると言われます。ドイツのシノドスに参加したオブザーバーや各国でシノドスに携わっている人たちによると、教会が信徒から遊離した組織になっている、教えが実際の生活とかけ離れている、若者の活動の場がない、教会のあり方が聖職者中心で、権威主義的であるなどが、一般信徒の発言から見た原因のようです。よって、信徒が主人公でありステークホルダーである教会に変わっていくべきだと言っています。ルカ福音書18章9節以下で、うぬぼれている聖職者のファリサイ人ではなく、「罪人の私を憐れんで下さい」と祈った徴税人が神から義とされるのだとイエスは言います。神は難しいことを要求していません。素直な気持ちで神に向かい、キリストの愛に生きましょう。 ―HERDER THEMA参照;ドイツ司教団HP-   山口

10月号  
 黒人の解放の神学を学んだ榎本空さんの本『それで君の声はどこにあるんだ?』に、「400年」という言葉が何度か出てきます。アメリカでは「400年間、黒人は苦しんできた。400年間、わたしたちは隷属状態に置かれてきた。最初の奴隷がヴァージニアのジェイムスタウンに運ばれた1619年からちょうど400年・・」400年前、ポルトガル、スペインはアフリカ、中南米などへ進出しました。そこを植民地とし、黒人は奴隷となってアメリカへ運ばれた。今もその余波は続いていて、白人からの差別、虐待、リンチ、首根っこを膝で押さえつけての死など。それに抗議抵抗しながら、キリストを信じ神を賛美しながら生きている。そう言えば日本も400年前、ポルトガル人が来日。宣教と貿易に従事します。宣教師はキリストの福音を伝えますが、その一環として政治的軍事的な行動もします。そのため、日本の宗教を破壊するだけでなく政治的秩序を破壊する存在として宣教師は排斥されていきます。同時に一般信徒も棄教を迫られました。棄教しないと拷問と死が待っている。殉教です。信徒は純粋な信仰をもって死んでいったのですが。宣教師のあり方が原因で迫害され殉教していったのがキリシタン時代でした。400年後の現在はどうでしょうか。当時とは違いますが、司教・司祭のあり方は今も問われています。教皇フランシスコが目指している「共に歩む」教会に一歩でも近づくことが望まれます。山口

9月号

7月17日付けカトリック新聞に、2021年の統計でドイツのキリスト教人口が総人口の半数以下になったとありました。2022年は36万人のカトリック信者が脱会して、その旨を自治体に届け出ているという。気になったので、いくつかのサイトを当たって見、さらに最近読んだ宮崎賢太郎著『潜伏キリシタンは何を信じていたか』(263ページ)の記載を加えると、ドイツでは2006年は8万4千人がカトリック教会から脱会、2007年は9万3千人、2008年は12万1千人、2010年は18万人、2014年は21万人、2015年は18万人、途中省略して2019年は27万人、2020年は36万人がカトリック教会を脱会したという。これは日本の現状を考えさせるものでもあるでしょう。原因は多々あるでしょうが、一つは、カトリックでなければ救われないわけではないということを人は感じているのではないでしょうか。8月21日のミサの朗読箇所はイザヤ書66章からとルカ福音書13:22~30でした。イエスは狭い戸口から入るように努めなさいと言います。戸の外にいる人は「開けてください、私たちは主の教えを受けた者です」と答えますが、主は「不義を行なう者ども、私から立ち去れ」と厳しい。不義とは正しくない、神のみ旨を行なっていないということです。たとえカトリックでなくても仏教徒であろうが無宗教であろうが、神の御心にかなう人は「神の国」に入るということです。イザヤ書第56章から66章を読むと、神は私たちの父であり、人を国別や人種などで区別しない。主なる神を日々尋ね求めて、神の前に打ち砕かれて、へりくだって、神の御心にかなう者でありたいと努めるなら、神は私たちの光となり泉となられるとあります。希望をもって歩みましょう。山口

8月号  
雨上がりの翌日だったか、唐湊の裏庭の草刈りをしていたとき、ふと振り返って見ると、椋鳥(むくどり)でしょうか、20羽くらいが水溜まりでパシャパシャしているのです。その庭は草地ではあるが、駐車場にしているため窪みができて、その日はかなり大きな水溜まりになっていたのでした。鳥たちにとっては、滅多にない水浴びの機会だったのでしょう。その近くには池もないようだし、下のほうまで行けば新川がありますが、彼らの生息と活動の範囲がどれだけなのかわかりませんが、いいものを見つけたといった感じではなかったのでしょうか。私がそちらのほうに近づいていくと、さっと飛び立って木々や電線に止まってこちらを見ています。鳥たちにとっては貴重な水溜まりだったように思います。私たちは何かと不平を言いながら生活していますが、椋鳥たちはもっと与えられた恵みに感謝して生きているように思えます。パウロは言います、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら<恵みの時にわたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた>と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(第二コリント6:2)  山口


7月号  
 ロシアのウクライナ侵攻によって世界は大きく変わろうとしているようです。ウクライナからの難民も含めて、世界の難民人口は1億人を超えたと言われます。また穀物の輸出ができないため、アフリカなどで食糧危機となり、各国で穀物だけでなくあらゆる物資の値段高騰で、貧困層はさらに追い詰められ、餓死者も増えていきます。ロシアが侵攻を止めない限り、戦争は続いていく。支配されたくない、自由な国でいたい、そのために命をかけて戦う。自分のことは自分で決める、それが人間の尊厳です。他者はそれを尊重しなければならない。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)。誰もが望んでいることを実現する方向へ進んでいく、それが人類の進化の方向でしょう。「欧州連合(EU)加盟希望国」で検索すると、その国の多いこと!!「人間の尊厳、自由、民主主義、平等、法の支配の尊重、マイノリティに属する人々の権利を含む人権など」を尊重する国は加盟申請ができるとあります。ところで、カトリック教会はどんな方向に進んでいるでしょうか。フランシスコ教皇は、司教会議であるシノドスをもっと一般信徒の声に耳を傾けるところから始めようではないかと言ったのです。高位聖職者だけが議論して教会運営をするのではなく、もっと皆の意見を聞きたい、普段声をあげることのない人たちの思いを聞きたいと教皇は言うのです。これからの教会の進むべき道、神様の望む教会の形は、そこに現れてくるのではないかと。 山口

 

6月号

ロシアのウクライナ侵攻が世界に様々な変化をもたらしています。日本でもいろんな反応、対処が見られるようです。今こそ防衛的な配備を、また憲法改正をと叫ぶ人々もいれば、逆に、軍備では国は守れない、平和憲法を守れという人々。おそらく、ほぼ半々に分かれるのではないかと思います。それはさておき、教会を考えてみますと、昨年、創立50周年でした。当時から信徒数は増えたでしょうか。むしろ減ったのではないか。いろんな原因があるでしょう。教会の構造、組織上の問題もあります。イエスは互いに愛し合いなさいと言っているが、教会内では意見の相違から感情のもつれ、嫌な人は無視して顔も見なければ対話もしない。しまいには教会を離れるなど。紫原だけのことではありません。どの教会でも人間として大人になること、成熟すること、その上で信仰者として成長することが十分できていないのではないでしょうか。もちろん私自身も含めてです。私たち信徒は「地の塩、世の光」になってきたでしょうか。私たちの「信仰」は本当に私たちを内面から変え、成長させ、古い自分から新しい自分に脱皮してきたか反省したいと思います。カトリック教会には内容豊かな言葉の祈禱文がたくさんあります。でも、それを唱える時だけで終わっているのではないか。「異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じである」(マタイ6:7) 神の前での本当の祈りを意識したいと思います。山口 


5月

ロシアのウクライナ侵攻を見ていると、昨年の教区報5月号やミサの説教でも紹介したトルストイの民話「洗礼(名付け)の子」を思い出します。権力を持つことの危うさと、認識と判断が自己中心的になりやすいことを、名付けの子は示しており、それはプーチンも同じだからです。また大戦後の戦争は東西冷戦の代理戦争やそれに起因する内戦が多いようです。また戦争を仕掛けるのは大国のほうです。予防戦争を始めるのも大国で、相手が攻撃してきそうだからとの名目で、あるいは自国民保護のためと称して攻撃してくる。外からの介入や援助がなければ、弱小国は蹂躙されるのみです。人権も人道もない侵略侵攻は蛮行であり、人を奴隷化するものです。奴隷状態か死か、そのどちらも人間の命の尊厳を奪うものです。しかし歴史を見ると古代の昔から、奴隷は自由を求めて反乱を起こしてきました。人間の尊厳は自主性にあり、判断と行動の自由にあるからです。TBS「報道特集」によると、ロシア人作家で歴史家のボリス・アクーニン氏は「本当のロシア」というグループを立ち上げました。本当のロシアは戦争反対、独裁反対の国であり、プーチンのロシアではないと。また本当のロシアは、ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフの国であり、プーチンの国ではないと。ロシア大統領の思想がどうであれ、権力と武力を使って他国を破壊し人の命を奪うやり方は、どう見ても正当化できないように思います。詩編33に「神は正義と公平を愛し」とあります。上に立つ者に「正義と公平」がないとなると、国は治まらず、教会も「神の国」のしるしとはなり得ないでしょう。 山口

 

4月号 
今年2月、クレムリン宮殿でプーチン大統領がフランスのマクロン大統領と会談したとき、異様に長いテーブルの両端に二人は座っていた。およそ6メートルの長さだという。プーチン氏は自分と近しい信条のカザフスタンのトカエフ大統領とは小さなテーブルに座っていたという。心理学的には対人距離という言葉もあります。親密な人とはほとんど距離を取らないで語り合いますが、社会の中ではお互いの立場によって、それ相応の距離が置かれます。長い距離を取るのは自分の権威権力を示したい、相手との上下関係を示したい、この人と仲良くする気がないなど考えられます。ところで、私たちの主イエスはそんな大統領とは逆の姿勢でした。「キリストは、神の身分でありながら、それに固執せず、自分を無にして僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、・・死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。・・こうして天上のもの、地上のもの、地下のものがすべてイエスの御名にひざまずき、すべての舌が<イエス・キリストは主である>と宣べて、父なる神をたたえるのです」(フィリピ2:6~11)。イエスのほうから私たちのほうに下ってきて近づいてくださったがゆえに、私たちも自由意志で「イエスキリストは主です」と頭を下げることができます。イエスがこの世の支配者や王とは違って、私たちに<仕える者>になってくださったからです(ルカ22:26)。自由意志で生きれること、キリストだけが師であり、あとは皆兄弟であること(マタイ23:8)が信仰者の、そして教会の本来の姿です。また人類が向かうべき未来の姿もそのようなものであるはずです。 山口

 

3月号

3月2日「灰の水曜日」で四旬節に入り、「イエスの死」に向かっていきます。ヨハネによる福音書第2章、カナの婚宴の場面。祝いの席で葡萄酒が足りなくなってしまう。マリアはイエスにそのことを告げますと、イエスは「私の時はまだ来ていません」と答えます。「私の時」とは、最後の死の時のことです。ある安息日に、足が不自由で歩けない人をイエスは癒しますが、ユダヤ人から安息日を守らない人として、事あるごとに迫害されていきます。「このためにユダヤ人たちはますますイエスを殺そうとねらうようになった」(5:18)。イエスは自分の死を念頭に置きながら、生き抜かれました。パウロは「私たちは洗礼によってキリストの死にあずかる者となった。・・わたしたちはキリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と(ローマ人への手紙第6章)。ところで、すでに唐湊の司教館の近くでは色の濃い桜が花開いています。「行きくれて木(こ)の下陰(したかげ)を宿とせば 花や今宵(こよひ)のあるじならまし」 いさぎよく十遍の念仏を唱えて、討たれていった平忠度(ただのり)が身に付けていた歌です(「平家物語」)。桜は死の象徴でもあります。追われて死んでいった点ではイエスも忠度も同じです。「死ぬことによって永遠の命によみがえることを深く悟らせてください」(聖フランシスコの平和の祈り)。どんなときもイエスと共にいるようにしたいと思います。山口

2月号
今から10年ほど前、孫崎享『日本の国境問題』、保坂正康・東郷和彦『日本の領土問題』、豊下楢彦『尖閣問題とは何か』など読んでいた時期があります。豊下氏はその中で「ところが異様なことに、日本外交は戦後60年以上を経て今日に至るまで、その外交路線は日米基軸に固定されているのである。この日米基軸論は、日本においては誰も異議を指し挟まない、それこそ常識となっているようである。しかしどれだけ日米基軸を繰り返しても、実はそれだけでは日本外交の戦略目標について、何も語っていないのも同然なのである。」現在はどうでしょうか。馬毛島・奄美・沖縄に自衛隊基地や米軍の施設など増えているようです。巨額の防衛費が投入されています。それで安全保障と平和はもたらされているのか・・。ニュースによると、国民の年金の受給額は2年連続で減っていて、命の危険にさらされているのに。
ところで、詳しくは述べませんが、今から400年前、日本に来た宣教師たちは敵対する近隣の領主や権力者から、教会や宣教師や信者の「身の安全の確保」(高橋裕史『戦国日本のキリシタン布教論争』)のために、軍事活動や戦争を容認し、実際にその種の活動をしました。そのため、秀吉や徳川政権は宣教師を危険な存在と見なして徹底的に日本から排斥していきました。キリスト教が「平和の福音」でなくなると、何のための信仰でしょうか。パウロのエフェソ書第2章にあるように、キリストの平和の福音を生きましょう。山口

2022年1月号 

新春 「主が御顔(みかお)を向けてあなたを照らし あなたに恵みをあたえられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安をたまわるように」(民数記6章) 「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます」(エフェソ書3:12) 神は「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのできる方」(同書3:20)であると言われていますが、このことを、どう体験できるでしょうか。かなえられていないようで、深いところではかなえられている。自分の思いを空(から)にして、意識を神の御顔に向けましょう。そうして神が御顔をこのわたしに向けているのだと思いましょう。わたし以上にわたしのことをご存じの方に自分をゆだねて、信仰のうちにとどまりましょう。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さをもっと理解できるようになりたいと思います。「新(あらた)しき 年の初めの 初春(はつはる)の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)」(降り積もる雪のように、良いことがたくさんありますように!大伴家持)今年も予期しないことが多々あるでしょうが、よろしくお願いいたします。山口

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