教皇文書など

「教会の生活と宣教におけるシノダリティ」の序文の概要
1~2. 神が第3千年紀の教会に望んでいることは正にシノダリティの道に他ならない。主がわれわれに求めていることは「シノドス」という言葉に含まれているという意味で、シノダリティは教会の本質的次元であると教皇フランシスコは強調している。第二バチカン公会議に沿って、シノダリティという主題を神学的に明らかにし、司牧的実践につなげていきたい。
3.シノドスという言葉は教会の伝統において古くかつ尊敬すべき言葉である。神の民がその道を共に歩むこと、一緒に歩むことを指す。キリスト者は使徒言行録で「その道の追随者」と呼ばれている。ヨハネ・クリソストムスは教会とは「共に歩むこと」(シノドス)を意味する言葉であると言っている。
4.教会の最初の世紀から「シノドス」の語は様々なレベルにおける集会(教区、地方、地域、パトリアルカ、普遍)に用いられ、教義、教会法、典礼、司牧などの問題が聖書と聖霊の照明の下で取り上げられた。
5.新語、新教義となる「シノダリティ」「シノダル」「シノダル・チャーチ」は第二バチカン公会議の教導職から始まる教会的意識において成長成熟していくべきものであり、事実第二バチカン公会議以降現在に至るまで地方教会や普遍教会で生きた経験が積まれてきた。
6.シノダリティは第二バチカン公会議の教えには明確には出ていない概念であるが、しかし当会議が激励している教会の更新・改革の働きの中心にあるのがシノダリティであると言える。
 「神の民」の教会論はすべての受洗者が共通して有する尊厳と使命を強調し、彼らのカリスマ、召命、奉仕のなかにそれらは生かされるべきである。この文脈の中でコミュニオン、つまり交わりという概念も重要であり、その源泉かつ頂点はエウカリスチアの集会である。三位一体の神との交わり、人間同士の交わり。シノダリティは「神の民」という教会の生き方であり活動の仕方である。
7.団体制の概念も重要である。地方教会の奉仕における司教たちの奉仕職の行使は司教団という形においてなされる。さらに、一つの普遍教会の中心において地方教会間の交わり。これはローマ司教と司教団とのヒエラルキー的交わりによってもたらされる。
 シノダリティは司教たちの団体での奉仕の行使に表わされる。
8.第二バチカン公会議によって約束された更新・改革は、教会の交わり、司教団制という交わり、「シノドス的」に考え行動することを促進していったとは言えるが、公会議が目指すところまでは、まだまだ遠いと言える。よって今日、シノダル・チャーチの適正な形を見出すための神学的取り組みは必要であり、司牧的な方向付けも明確にせねばならない。
9.ここで教皇フランシスコは新しい敷居を超えるようにわれわれを招いている。第二バチカン公会議に沿って、シノダリティは、イエスの福音から現れてくる教会の形を描いていると教皇は主張しているのである。歴史の中で、伝統に対して創造的に忠実でありながら、そのような教会を受肉させていくことが求められている。
 「教会憲章」の教えに従って、教皇フランシスコは、シノダリティはヒエラルキー的奉仕職自体を理解するための最も適切な枠組みを提供していると、また信仰者の「信仰の感覚」の教えに基づいて、教会のすべてのメンバーは福音化の行為者・担い手であると述べている。
それゆえ、シノダル・チャーチを実現することが、全「神の民」を含む新しい宣教の力のための不可欠な前提条件なのである。

 

57 第二バチカン公会議の教会論的展望に沿って、教皇フランシスコはシノドス的教会(共に歩む教会)像を神の民と司教団から成る“逆さまのピラミッド”として描く。その司教団の中の一人であるペトロの後継者は一致のための特別の奉仕職(ミニストリー)を持っている。ここで、頂上は根底の下に位置している。
 教会の構成要素としてのシノダリティは、ヒエラルキー的奉仕職(=ヒエラルキーという奉仕職)自体を理解するための、最も適切な解釈の枠組みを私たちに提供する。イエスは使徒団を教会の頭に据えてそれ(=教会)を設立したが、この使徒団の中で使徒ペトロは”岩“(マタイ16.18参照)であり、信仰において兄弟たちを”固め“なければならない存在である(ルカ22.32参照)。{兄弟たちの信仰を固めなければならない存在である}しかしこの教会において、逆さまのピラミッドにおけるように、頂上(頭)は根底の下に位置する。その結果として、権威を行使する者は”奉仕者(ミニスター)“と呼ばれる。なぜなら語の元々の意味において、彼ら(奉仕者)はすべての者の中の最も小さい者だからである。

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