随想

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 4月24日は「神のいつくしみの主日」でした。
英語では Divine Mercy Sundayです。
神のあわれみの主日のほうがいいようです。
ヨハネ・パウロ二世がシスター・ファウスティナの列聖のミサの説教
(2000年4月30日)でシスターファウスティナの「日記」から、
以下の言葉を引用しています。
「わたしは隣人が苦しんでいるのを見るとき、とてつもない痛みを感じます。
隣人の苦しみがわたしの心の中で脈打つのです。
隣人の苦しみがわたしの身体を壊すほどに、
彼らの苦しみはわたしの心にとどまっています。
隣人が救われるためなら、彼らの悲しみがわたしに降りかかって来ればよいと
思うほどです。」
教皇の説教全体の中にも「あわれみ」という語が何度も出てきます。
人間の悲惨さに対する「神のあわれみ」が、イエス・キリストの受難となって現われました。
弱い私たちですが、主と共に、主の内にいたいと思います。(山口)

年間第15主日  申命記30:10~14、ルカ福音書10:25~37
 ルカの福音は良きサマリア人のたとえ話です。イエスの問いに律法の専門家は「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」と答え、イエスは「そうだ、あなたも実践しなさい」と言います。それに対して「では、私の隣人とは誰のことですか」と律法の専門家が聞いたので、イエスは良きサマリア人のたとえを話された。祭司とレビ人は、殴られ半殺しの状態の人を見て見ぬふりをして通り過ぎていく。サマリア人は、その人を見て憐れに思い、出来る限りのことをして助けようとしました。誰が隣人かとの問いに「その人を助けた人です」と答え、イエスも「あなたも同じようにしなさい」と。
 隣人とは誰なのか、確かに今の日本社会でも隣人との交流はあまりないので、近くに困っている人がいるのか、誰が隣人なのか見えにくいです。むしろテレビなどで、世界のいろんな所に貧しい人がたくさんいることはわかりやすいです。4年前に子ども食堂を郡山司教さんの後押しで始めた時も、テレビの報道その他で、今の子どもたちが貧しい状況であることを知った次第でした。そして子ども食堂を始める準備が整い、近くの3つの小学校を訪ね、校長先生たちに「これから子ども食堂を始めますので、ポスターを掲示してください、そして子供たちの下校の際、チラシを校門で配らせてください」とお願いに行きました。そのとき、ある校長先生は「うちにはそのような貧しい子はいないけどねえ」と言ったのが印象的でした。僕は「この校長先生は本当に子供たちや親たちのことを知っているのだろうか」と疑問に思ったことでした。
 もう一つ。先月、ある大学の女子学生からメールをいただき、大学の教育関係のゼミで子ども食堂を研究していますので、ぜひ見学させてくださいと。いいですよと答え、当日、二人の女子大学生がやってきて、録音しながら僕やスタッフの話を聞いていました。それが終わったあと、二人はお手伝いをしていいですかと。百個の弁当とその他のおみやげの準備です。人手は多いほど、助かります。もちろんいいですよと答えました。その後も、お客さんが車などで来た時、弁当を渡す手伝いもしてくれました。半日以上、子ども食堂のスタッフたちと過ごしたことになります。
 他方、5,6日前のことですが、別の大学の男子学生からメールが来ました。この子は教育学部で子ども食堂の研究をしているので、以下の質問に答えてくださいと、7個の質問をメールに書いてあり、ご多忙でしょうが、ぜひ回答して送信してくださいとありました。その7つの質問をここに書き写してみますと、1. どのくらいの人数の子どもが利用していますか? 2.どのような状況にある子どもたちが利用できますか?条件があれば教えて下さい。(例えば、1人親世帯や、家庭の収入の条件など) 3. 具体的な取り組みを教えてください。食事を提供する他に何か取り組みはありますか? 4. 子ども食堂を利用するメリットは食事の面以外にありますか? 5. 子ども食堂への支援として大学生ができることはありますか? 6.生活に困っている子どもたちと接していて、子どもたちは1番何に困っていると感じられますか?また、どのような面での支援が必要だと感じられますか? 7. 利用されている子どもや保護者の方から、何か相談を受けたりすることはありますか?あれば、その内容を可能な限り教えていただきたいです。 僕は呆れてしまいました。さて、子ども食堂に足を運んで時間をかけて、あれこれ質問し、さらに手伝いをして一緒に働いてみた二人の女子大学生と、メールで質問しただけの男子大学生とでは、どちらがいい研究ができるでしょうか。どちらが子ども食堂の現実をわずかなりとも体験できるでしょうか。答えは明らかです。近くで、聞くこと、見ることです。男子学生のほうの質問内容もこれだけで子ども食堂のことがわかると思ったのでしょうか、きわめて粗雑な質問内容で、これでは聞いていないも同然なのです。たとえ、僕が丁寧に答えて送信したとしても、この大学生はそれを正しく受け止める能力もないのではないかと思います。
 さて、今日の福音も、現代の教会が直面していることも同じかもしれません。私たちは誰を隣人としているのだろうか。困っている人の隣人になっているのだろうか。教会に来ている信徒、来ていない信徒、その他いろいろですが。シノダリティ、「共に歩む、共に生きる」というのも、結局は誰を隣人としているか、信徒の声を聞いているのだろうか、社会の中の困っている人の声を聞いているのだろうか。そして心を動かされて行動しているだろうか。これが一つ。
 もう一つは、イエス・キリスト自身が「良きサマリア人」であり、私たち一人一人は傷ついている旅人だという視点です。申命記に「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行なうことができる」とありました。御言葉は神の言葉でもありますが、イエス・キリストのことでもある。パウロのローマ書10:8に、この申命記の言葉は引用されていますね。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、心にある。これは私たちがのべ伝えている信仰の言葉である。口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら救われるのです。実に人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです」と。傷ついている私に、もっとも近い隣人としてキリストが「良きサマリア人」として関わってくださっている、霊的命を与えてくださっている。この救いを大事にしながら、同時に隣人に伝えていくことができるのだろうか、僕にも自信はありません。 山口

世界シノドスはどうなっているのか。他の教区は5月、6月までじっくりと

時間をかけて信徒の声を聞いています。

 

 

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